廃墟趣味を考える


廃墟に惹かれる理由はなんだろう  2013/07/17 pcfx



最初に正直に言っておくと、pcfxは廃墟そのものにはさほど執着がない。オンボロ建物とか、正直危険だし不潔だしロクなものではないと思っている。「廃墟は美しい」という人もいるが、それは元々の建築が素晴らしいからであって、何でもかんでも廃墟が美しいわけではない。多くの廃墟は単に汚ならしいだけだ。ちゃんと管理された新築の建物の方が美しいに決っている。まずこれは常識として押さえておきたいところだ。

さて、新築の建物にはないものがある。それは残留物だ。そこで仕事なり生活なりをしていた人々の意図しない記録だ。残留物には日記のような生々しく具体的なものから、家具など捨てられていった道具まで色々ある。例えば道具にしても作られた年代や価値などそれぞれに個性があり、かつてそこにいた人々が選んで購入したのだ。その選択には何らかの理由があり、用途にも性格が出てくる。残留物がありきたりの既成品の場合はそこに情緒を感じ取るのが難しいが、それが創作物だったり加工された跡があったりするとにわかに人間臭さが立ち込めてくるのだ。

残留物に思いを馳せ、かつての人々を思い描くのは結構な事だが、それはあくまで「下世話な覗き趣味」に他ならないという点に留意したい。どんなに言葉を飾ろうが論理的に分析しようが、それは「常識」では大変下品な行為であり悪趣味なのだ。そこを間違えて「わたしたちは文化的な活動をしている」と認じて偉そうにするのは大変滑稽な事だ。廃墟に行ったり残留物を漁ったりするのは、例えるならストリップ小屋に行ったり女の部屋に忍び込んで下着を漁るのと同じような行為だ。決して威張れる事でも堂々とする事でもない。スケベ心で恥じ入りながら人知れずコッソリやる類の行為であるべきだろう。

だからこそ、廃墟探索は内緒でごく親しい仲間内で粛々と行うべきものであり、大々的に仲間を募集して徒党を組んで物見遊山で出かけるべきではないのだ。廃墟へ入ることが法律的に不法侵入であること以前に、入ろうとする心構えが既に後ろ暗いという事を、今一度再認識したいものだ。

無論、この考え方を他人に押し付けるつもりはない。勝手に何でもやればよろしい。知ったことではない。だが廃墟探索を熟考すれば大抵このような結論に至る筈であり、よく考えもせずに反対意見を述べるのは10年早いと言わせてもらおう。







では、元々廃墟に行こうと思う動機はなんだろうか?何に惹かれて行くのか?

基本的に廃墟では入場料を取っていない。無料で入れる。だから気軽に入れるお得なテーマパークと言える側面がある。だが本来は土地建物の所有者がいる筈であり、その所有者は入場して欲しくないと思っているだろうし、もしどうしてもと言うのなら入場料を取りたいところだろう。つまり本来は廃墟には入場料があり、そこに料金を支払わずに無賃入場しているのが廃墟探索者だと言える。本当にロクでもない連中だ。

商業テーマパークには偽物が並んでいるが、廃墟には本物がそこにある。博物館には整理されて陳列されているが、廃墟にはそのままの形で保存されている。お化け屋敷には不気味な演出があるが、廃墟は演出なしで不気味だ。ハイキングには特定の目的がないが、山奥の廃墟へ行く過程には明確な目的がある。ドライブは車を転がすだけだが、廃墟を探すキチガイドライブには明確に目標がある。考古学には専門知識と忍耐力を必要とするが、廃墟探索はお手軽お気軽に近代史を感じる事ができる。

このように、廃墟探索は目的がハッキリした割りと文化的な香りのするお気軽なエンターテイメントであり、さらに入場無料である。廃墟を探し、出かけ、見つけ、探索し、写真を撮り、それをwebで公開する。これら廃墟探索に関わる一連の作業は非常にゲーム的要素が高く、探索に伴う装備もまた、RPGの武器やアイテムの様にレベルアップさせていく。靴や服、カメラなどに凝って段々と本格的な物へ進化させる楽しみもある。総合的に言えば廃墟探索はゲームであると要約できるだろう。





では、なぜ目的が廃墟なのだろうか。

ちょっと探せば、まだ行ったことがない遺跡や博物館など家の近くにあるだろう。探究心はそういう場所へ注げばよいのだが、なぜ敢えてそういう場所を後回しにして、出自のハッキリしない研究もされてない廃墟に関心が向かうのだろうか。

色々な物事が明らかにされ研究し尽くされている現在、研究対象になる隙間は少なくなってきている。ネット時代にはあらゆる物好きが競うように森羅万象を研究し発表する。我々の選択肢は、研究対象を自分で開拓するか、誰かの開拓した対象に乗っかってブームを助長させるか、或いは全ての物事に無関心になるかのどれかしかない。廃墟探索もその一つのジャンルであり、誰かが最初に始めた「廃墟探索」という趣味を、自分の住んでいる地元の強みを生かして展開しているに過ぎない。廃墟探索の開拓者といえども、全国に隠れるように点在する廃墟を一人で全て探索するのは不可能な行為である。廃墟はどんどん解体されてなくなっていき、今日もどこかで廃墟になっていく建物があるのだ。これらをカバーするには最低でも1地方に1つは熱心な廃墟探索者グループが必要である。現在まだまだ日本全国の廃墟を概ね把握しているというレベルにはなく、手薄な地方や過当競争になっている地方がある状態だ。地方によってはまだ参入と開拓の余地が残されているのが現状である。

廃墟と一口に言うには、その種類は豊富だ。大規模産業遺構から夜逃げした個人宅まで、大きさも内容も大きく違ってくる。廃墟の建築と時代背景に目を向けるなら産業遺構だ。軍艦島のように観光地化されて廃墟でなくなったものもある。その一方で山の中にある無人集落に、誰も顧みられない荒れ放題の家屋があり、昭和初期から現在に至るまで誰も足を踏み入れなかった家もあるのだ。より情緒的な廃墟は個人宅に尽きる。産業遺構と個人宅は同じ「廃墟」ではあるが、訪れる者は全く別の目的や期待を持っているだろう。そういう意味では両者は同じものではないとも言える。


廃墟探索者は写真を撮りたがる。現行の建物を撮ればよさそうなものだが、それはただの風景写真、建築写真だ。ところが不思議なことに、廃墟を撮影するとたちまちそれは「芸術写真」という事になる。廃墟に向けて安デジカメをパチリとやるだけでたちどころにアートフォトの出来上がりである。ちょっと腕に覚えがある者が一眼レフのデジカメで撮ろうもんなら「アーティストでござい」という雰囲気だけは醸し出せる。その写真を1枚でも売れば「プロの芸術家先生」の出来上がりだ。安い芸術もあったものだ。

このような「廃墟写真」を芸術として認識するには、いくつかの文化的段階を経た国民でないと難しいだろう。まず国が豊かで付近に廃墟がゴロゴロしていない環境でなければいけない。また希望に溢れる未来像を経て、より現実的で悲観的な退廃と荒廃の未来の文化を経験してないといけない。それ以前に、戦争などで国が焼け野原になった経験があり、そこから復興していなければならない。そして「盛者必衰」を感じ取る政変を経た長い歴史を持った国でないといけない。これらの要素を少なくとも日本は有しており、そこに住む一定水準以上の教養を持つセンチメンタリストだけが廃墟写真を好むのだ。



結論を言えば、別に目的は廃墟でなくてもよかった。「全国神社狛犬撮り歩き」でも「日本全国カーブミラー写真大全集」でもよかったのだ。たまたま早期に出会ったのが「廃墟」で、それを始めるハードルが低かった。隙間研究ならなんでもよかったのだ。
なんとなく芸術っぽくて考古学チックでゲームのような謎解きや冒険があり、アンダーグラウンドな雰囲気に酔いながら家から1〜2時間もあれば車で行ける。手軽で楽しい、コストパフォーマンスに優れた趣味、それが廃墟探索だったというだけの事なのだ。




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